京都 KYOTO    洛中洛外図と障壁画の美

●上野  平成館







●7つの洛中洛外図屏風が展示されています。

舟木本・勝興寺本・池田本・上杉本
歴博甲本・歴博乙本・福岡市博本


 五条大橋(部分)
舟木本
岩佐又兵衛 筆



岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、 天正6年(1578年) - 慶安3年6月22日1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、は勝以(かつもち)。通称「吃の又平(どものまたへい)」


摂津国
河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城荒木村重の子として生まれる。誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される

成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り[1][5]、信長の息子織田信雄近習小姓役として仕えたという[1]。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである[6]
大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北庄(現福井市)に移住する。忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。寛永14年(1637年)2代将軍徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍徳川家光の娘千代姫尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、波乱に満ちた生涯を終える。家は福井に残した長男岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる[1]。(WIKI)

傾城反魂香』(けいせい はんごんこう)は歌舞伎人形浄瑠璃の演目。三段構成のうち、現在は上の段の「土佐将監閑居の場」、通称「吃又」(どもまた)がよく上演される。
元は近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、宝永5年 (1708) 大坂竹本座初演。狩野元信の150回忌を当て込んで書かれた作品で、絵師狩野元信と恋人・銀杏の前の恋愛に、正直な絵師又平(岩佐又兵衛がモデル)の逸話と、名古屋山三と不破伴左衛門との争いから来るお家騒動をないまぜにしたものである。歌舞伎化は享保4年 (1719) 大坂。初演後ほどなく、人形浄瑠璃・歌舞伎ともに「吃又」の部分が単独で繰り返し上演されるようになった。

●あの虎のでてくる歌舞伎のモデルになっている岩佐又兵衛、
凄味のある屏風絵です!
おすすめです!




400年前:民衆2728人
方広寺大仏殿
清水寺
五条大橋
祇園祭

二条城





●二条城
二の丸御殿
黒書院

狩野尚信筆(1607~50)
桜花雉子図(部分)
同上

同上






障壁画
京都御所・龍安寺・二条城


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