浮月楼:庭園
もともとの敷地は区画整理で周辺をかなり削られているが、現在でもおおむね2千坪を超えJR静岡駅からも近く、各種行事の場として利用される。庭園の名称由来ともなっている、築山・流水・庭池に面した"浮殿"からの夜景は広く愛されている。(WIKI)
慶喜公 書
余生(WIKI)
明治2年(1869年)9月、慶喜は戊辰戦争の終結を受け謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍達とは違い政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。
明治30年(1897年)慶喜は東京の巣鴨へ移り住んだ。翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城へ参内して明治天皇に拝謁した。明治33年(1900年)6月22日、慶喜は麝香間祗候となった。また明治35年(1902年)慶喜は新政府より公爵に叙せられ[35]、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し貴族院議員就任、35年振りに政治へ携わることになった。
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