脇田和と猪熊弦一郎:石川県立美術館
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古九谷を見に一度訪れてみたと思っていた
石川県立美術館です!
古九谷を見に一度訪れてみたと思っていた
石川県立美術館です!
石川県立美術館は平成27年度に、一般財団法人脇田美術館より317点の脇田和作品の寄贈を受け、現在321点の作品を収蔵しています。平成3年に脇田和が軽井沢に美術館を建てる際に厳選し、基本作としたすべての作品と、それ以降の代表作を主体とする、油彩154点、水彩素描72点、版画95点の大規模なコレクションです。
脇田家は、二代藩主前田利長の代から明治維新まで加賀藩に仕え、御算用場奉行、町奉行などを勤めた武士の家柄で、兼六園のすぐ隣にある「玉泉園」が屋敷跡です。
脇田和は、明治41年、実業家 脇田勇の次男として東京青山に生まれ、15歳でドイツに留学してベルリン国立美術学校に学び、絵画や各種の版画技法など美術全般にわたって研鑚を積みました。帰国後は戦前の洋画壇に頭角を現し、昭和11年、猪熊弦一郎、小磯良平らと新制作派協会を創立し、以後、常に具象絵画の第一線にあって画壇をリードしました。抒情であると同時に堅固な構成を持つ脇田作品は、情と智とが高いレベルで融合し、その融通無碍の世界は様々な世代から
幅広い支持を得ています。
本展は当館の脇田作品を核とし、脇田と交流の深い画家達の作品を交えて、
戦後美術界の様相をも示すことを趣旨としています。今回は交友画家の第一弾とし、
猪熊弦一郎画伯の作品を交えて開催します。
猪熊弦一郎は明治35年香川県高松市生まれ。東京美術学校で藤島武二に師事しました。大正15年、帝展に初入選し、以後10回、第14回で特選を得ます。昭和11年、帝展改組の美術界混乱期に小磯良平、伊勢正義、脇田和らと新制作派協会(現・新制作協会)を設立。その後フランスに留学し、マチスに師事。戦後、26年には上野駅コンコースに大壁画を描き、その後も建築物と関わる制作を数多く手がけています。30年から50年までニューヨークを制作の場とし、
帰国後も精力的に創作を続けました。
展示は2部構成で、一部では脇田と猪熊の作品10年単位に併置し、2人の個性あふれる創作の歩みを、第2部では脇田の初期から晩期まで、詩情あふれる作品の展開をご堪能いただきます。(HP)
脇田家は、二代藩主前田利長の代から明治維新まで加賀藩に仕え、御算用場奉行、町奉行などを勤めた武士の家柄で、兼六園のすぐ隣にある「玉泉園」が屋敷跡です。
脇田和は、明治41年、実業家 脇田勇の次男として東京青山に生まれ、15歳でドイツに留学してベルリン国立美術学校に学び、絵画や各種の版画技法など美術全般にわたって研鑚を積みました。帰国後は戦前の洋画壇に頭角を現し、昭和11年、猪熊弦一郎、小磯良平らと新制作派協会を創立し、以後、常に具象絵画の第一線にあって画壇をリードしました。抒情であると同時に堅固な構成を持つ脇田作品は、情と智とが高いレベルで融合し、その融通無碍の世界は様々な世代から
幅広い支持を得ています。
本展は当館の脇田作品を核とし、脇田と交流の深い画家達の作品を交えて、
戦後美術界の様相をも示すことを趣旨としています。今回は交友画家の第一弾とし、
猪熊弦一郎画伯の作品を交えて開催します。
猪熊弦一郎は明治35年香川県高松市生まれ。東京美術学校で藤島武二に師事しました。大正15年、帝展に初入選し、以後10回、第14回で特選を得ます。昭和11年、帝展改組の美術界混乱期に小磯良平、伊勢正義、脇田和らと新制作派協会(現・新制作協会)を設立。その後フランスに留学し、マチスに師事。戦後、26年には上野駅コンコースに大壁画を描き、その後も建築物と関わる制作を数多く手がけています。30年から50年までニューヨークを制作の場とし、
帰国後も精力的に創作を続けました。
展示は2部構成で、一部では脇田と猪熊の作品10年単位に併置し、2人の個性あふれる創作の歩みを、第2部では脇田の初期から晩期まで、詩情あふれる作品の展開をご堪能いただきます。(HP)
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