アトリエ日記:野見山暁治作品を読む
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全7冊読了。
2024・02・21
野見山作品には、日記以外にも各所で
金山康喜の名前が連呼されています。
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私が2015年葉山に
金山康喜のパリ展
をたずねた時点では、
1950年代初め二人が、
パリ・アパルトマンの
同じ屋根の下で
暮らしていたという
関係性は全く知りませんでした。
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いつもは開かない図録を眺めています!
この図録に寄せられた名文は
カナヤマを思いやり、
しみじみと心を打つものがあります!
🟠カナヤマ:野見山曉治
金山康喜とはパリで会った。
小学校の級長みたいな利発な顔をした
小柄な男だ。
紹介された時もそうだが、
同じメゾン・デュ・ジャポン(日本留学生会館)で
暮らすようになっても、
カナヤマはぼくの顔を見なかった。
いつも素知らぬ風に通りすぎる。
(図録より:以下略)
🟠独りぼつちの若者
もう長いこと、カナヤマの
遺作展をぼくは夢見ている。
いい絵かどうかは知らん。
ただ多くの人に見せたいとだけ
思い続けてきた。
(みんな忘れたより:以下略)
🟠パリの友人:金山康喜
いつも
その部屋は閉ざされていた。
誰かがその部屋の前を通るのを
その部屋の主は
足音が消えてゆくのを
ドアの内側から
息をこらして
聞いていたのに
違いない。
(四百字のデッサン:以下略)
🟠パリ・キュリイ病院
一時、旅行のつもりで帰国した初山は、
まるで客死みたいに故国で
あっけなく果て、
1964年
私はパリを去った。
(初山として登場:あとがきより以下略)
🟠やっぱりアトリエ日記
ぼくの個展。
会場で暫くぶりに、
金山康喜の妹さん夫妻。
ぼくはこの御二人に会うと、
妙に感傷的になる。
なんで金山は死んだんだろうと。
(2012年)
🟠
いい絵描きだった。
画面は虚構の、
きらびやかさに満ちていた。
(2012年)
🟠じわりとアトリエ日記
電車とタクシーを乗りついで、
葉山の美術館に昼近く着く。
「金山康喜のパリ = 1950年代の日本人画家たち」
ぼくは午後から講演したが、
出品者のなかの、
唯一の生存者だ。
(2015年)
🟠
いくつかの著作を読み
二人のドラマチックな
つながりを理解しました。
🟠
2015年当時の私のBLOGには
金山ブルーに魅せられて
会場を3回遊したと記されています!
それ以前も以降も
この記録は破られていません!
金山 康喜(かなやま やすき、1926年4月26日-1959年6月16日)は、日本の洋画家である。
1926年大阪市生まれ。
1939年大阪府立今宮中学校(旧制)で学ぶ。1943年両親の出身地の富山県へ転居。
官立富山高等学校 (旧制)で学ぶ。
1945年東京帝国大学、同大学院で数理経済学を学ぶ一方、猪熊弦一郎主催の田園調布純粋美術研究室で本格的に絵画を学び、新制作派協会展に出品。
1951年に渡仏。1952年ソルボンヌ大学入学、同年サロン・ドートンヌ展に初入選し、パリで画家として活動。1953年には油彩画1点がフランス政府に買い上げられる。1958年に一時帰国、1959年逝去。パリ滞在中は画家・野見山暁治と親しかった。(WIKI)
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