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源氏物語  須磨展

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あらすじ 朧月夜 との仲が発覚し、追いつめられた 光源氏 は後見する 東宮 に累が及ばないよう、自ら 須磨 への退去を決意する。 左大臣 家を始めとする親しい人々や 藤壺 に暇乞いをし、東宮や女君たちには別れの文を送り、一人残してゆく 紫の上 には領地や財産をすべて託した。 須磨の侘び住まいで、源氏は都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、淋しい日々を送る。つれづれの物語に 明石の君 の噂を聞き、また都から 頭中将 がはるばる訪ねてきて、一時の再会を喜び合った。やがて三月上巳の日、海辺で祓えを執り行った矢先に恐ろしい嵐が須磨一帯を襲い、源氏一行は皆恐怖におののいた。 連日のように続く、豪風雨。眠れぬ日々を過ごす源氏一行。ある晩、 二条院 から 紫の上 の使いが訪れ、紫の上からの文を読んだ源氏は都でもこの豪風雨が発生している事を知る。この悪天候のため、 厄除け の仁王会が開催されることになり、都での政事は中止されていることが使いの口から明らかにされた。 都に残してきた家族を案ずる、源氏たち。 源氏はかつて、出会って間もない頃に幼い紫の上が住んでいた邸で、宿直(とのい)した事を思い出していた。(WIKI) ●源氏物語 須磨をテーマとした 和人(佐藤和雄)ー長谷川京子(書) リトグラフと書のコラボレーション 版画と書が調和し響きあうユニークな試みです! 中央区銀座1-28-15 ギャラリーステージ ワン 03-3562-5181 10月12日まで 12:00~19:00(最終日17:00まで) 100年 建築  1Fタイル

加納光於展 KANO Mitsuo rupa

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● 加納光於(1933- ) は東京に生まれ、1960年から鎌倉に居を構え、80歳を迎えた今日もなお以前にまして旺盛な制作を続けています。加納が版画家として登場した1950年代は、敗戦の影響もあり経済的には困難でしたが、文化全体が活気に溢れた時代でした。そうしたなか、加納は目先の新しさや前衛性に与することなく、自身のめざす「孤絶している精神の晴朗さ」を手放さず、 ひたすらに自らの鉱脈を探り続け、豊かなイメージを追求してきた特異な独行の作家です。  1955年、銅版画の作品集〈植物〉を自費出版し、翌年、詩人・批評家の瀧口修造の推薦によりタケミヤ画廊で発表。その幻想的な作風は当時から高く評価され、1960年代にかけて隆盛をみせた国内外の版画展での受賞が相次ぐところとなりました。初期のモノクロームの銅版画は、その後、「版」を起点に、多様に変容してゆきます。1960年代後半の亜鉛版によるメタル・ワークと色彩版画の誕生、1970年代からはリトグラフ、エンコスティックなど次々と技法を広げ、さらにオブジェや本の装幀も手がけるなかで、1980年前後からは油彩を本格的に開始します。  2000年の愛知県美術館での大規模な回顧展以来、公立美術館での個展としては13年ぶりとなる本展は、1950年代の銅版画から最新作の油彩まで、半世紀以上にわたる加納の制作の精髄を紹介するものです。加納の多様な表現を通して、平面と立体、言葉と造形の間を往還してゆくその独創的なイメージの変容を確認するとともに、本展のタイトル「色身(ルゥーパ)」という加納の制作の根幹に隠された色彩への問いが、わたしたちにとって未見の経験の鍵をひらくきっかけになることを願わずにいられません。 (パンフ) 神奈川県立美術館 鎌倉 ●やっと出会うことができました。 銅版画からリトグラフ、油彩、造形まで 作品が5章に編集され 時間の経緯とともに 比類なきその世界を垣間見ることができました。 稲妻捕り  1977 稲妻捕り  NO2 波動説  1985 波動説 1986 ルゥーパ、降り注ぐものの  Ⅲ 2013 同上 Ⅶ プラネット・ボックス  1969 夜想曲  2012 油彩・コンクリート 「色身」ル

平林豊子  水彩画遺作展

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●小町通りのギャラリー・ユーで、 クレーあるいはマッケを思わせる 素敵な水彩画にであいました。 展示期間終了が迫っていますので速報します! お話によりますと 絵画教室を開催されていたそうです。 ご冥福をお祈りいたします。 スケッチ・ブックより

幻菫庵  

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●北鎌倉 幻菫庵で懐石ランチです。 美しい女性ばかりで満席です。 口当たりは軽めですが、2時間かかります! あと食事+デザート

ユトリロ展  生誕130年

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● モーリス・ユトリロ ( Maurice Utrillo ,  1883年 12月26日  -  1955年 11月5日 )は、 近代 の フランス の 画家 。生活環境に恵まれなかったにもかかわらず、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親である シュザンヌ・ヴァラドン もまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で 自分たちの絵画のあり方を確立している。(WIKI) ●ユトリロのことは、知っているようでほとんど知りませんでした。 「狂ってなんかいない。ただの酔っ払いだ!」 本人の言葉にあるように、ひどいアルコール依存症であったこと。 また、サティは母親ヴァラドンの一恋人であったことなども 知りませんでした。 たくさんの、作品も見ているようで何も見ていませんでした。 (今回70点ほどの作品展示があります。) モンマルトルの画家と称されていたこと。 ラパン・アジルに多数のヴァージョンがあること、 サクレ・クールなど教会の画家とも言われていたこと。 私には、風景画の中でも 人物描写がとくに魅力的に思えました。 トルシー=アン=ヴァロワの教会 1912 ラパン・アジル、モンマルトル  サン=ヴァン通り 1912 コルト通り 1955 市役所通りのカジノ 1922 サン=ドゥニの酒造所 モンマルトル 1932 ムーラン・ド・ラ・ギャレット 1934 ●そして、数十年前にいったモンマルトルの情景を思い出しました。 テルトル広場で買った小さな絵は、 いまでも大切にしています。 ギャラリーの女主人がジャパニーズ・ジャパニーズ と叫んでいました。 日本人の作家だと言っていたのです。 (いまでは、有名になられました!)  BIN  KASHIWA 1965 年 にリリースされフランス国内で人気を博した シャルル・アズナブール の『ラ・ボエーム(La bohème)』という曲は、彼の若い頃のモンマルトルでの思い出を歌ったものである。彼の親もモンマルトルに流れてきたアルメニア人であったが、彼はこの曲を、モンマルトルがボヘミアンたちの根城だった最後の日々への別れの歌であると述べている。(WIKI) アズナブールの投げるハンカチはよかった

長崎点描

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●過去に積み重ねた1ページ、短くても濃厚な時間でした。 次回は五島の教会をたずねてみたいと思います。 思案橋~大工町~籠町 夢二:忘れうちわ 中華街:中秋節 籠町から中華街に抜ける路地の一部が消滅していました。 あの遡上する ぼら は、まだ元気なのか? 稲佐山 五島まで見えることはめずらしいと Oさんはつぶやく! 白いかもめ が 今も変わらずスタンバイしているJR長崎ホーム!

長崎歴史文化博物館

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●8:30AM訪問 エントランス 長崎奉行所立山役所 復元整備