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大徳寺:紫野   真珠庵 Daitokuji Sinjyuan

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● 大徳寺 (だいとくじ、旧字体: 大德寺 )は、 京都府 京都市 北区 紫野 大徳寺町にある 寺 で、 臨済宗 大徳寺派大本山である。山号は 龍寶山 (りゅうほうざん、新字体: 竜宝山 )。本尊は 釈迦如来 。開基(創立者)は大燈国師 宗峰妙超 で、 正中 2年( 1325年 )に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には 仏殿 や 法堂 (はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える 塔頭 が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、 茶の湯 文化とも縁が深く、 日本 の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・ 庭園 ・ 障壁画 ・ 茶道具 ・ 中国 伝来の書画など、多くの文化財を残している。(WIKI) ●バスで京都駅から30分。 季節がら幸運にもいくつかの塔頭が特別公開中でした。 真珠庵 (しんじゅあん)は 京都府 京都市 北区 紫野 にある、 臨済宗 大本山 大徳寺 の 塔頭 である。型破りの禅僧として著名な 一休宗純 ゆかりの寺院である。特別公開時を除き、通常は非公開である。 重文 四季山水図  曽我蛇足筆  1491年 そが じゃそく 室町 後期 の 画家 。 曽我派 の祖。名は宗誉、 通称 は 式部 、 法名 は夫泉、 道号 は宗丈。明人 李秀 文 の子 とも 伝え られる。 初め 越前 朝倉家 に 仕え 、のち 一休宗純 に従って 禅を修めた。 大徳寺 真珠庵 に住し、 一休和尚 に画を 教示 した。 真珠庵 襖絵 及び「 苦行釈迦 図」などの 作品 で知られる。 文明 15年 (1483)歿。  重文  商山四皓図  長谷川等伯筆 1601年 遺偈(ゆいげ) -  文明 3年( 1481年 )に88歳の生涯を閉じた一休宗純が死に臨んで書した遺偈(高僧が死に臨んで弟子・後世への教訓などを記した漢詩)である。「この世に私の禅を理解する者などありはしない。(祖師の)虚堂和尚がやって来ても半銭の価値もない」という意味の句から始まる。讃仰した中国の祖師・ 虚堂智愚 (きどうちぐ)和尚さえ所詮は半銭の価値もないと喝破した禅境

智積院:東山 CHISYAKUIN

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● 智積院 (ちしゃくいん)は、 京都市 東山区 にある 真言宗智山派 総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は 金剛界 大日如来 、開基は 玄宥 である。智山派の大本山寺院としては、 千葉県 成田市 の 成田山新勝寺 (成田不動)、 神奈川県 川崎市 の川崎大師 平間寺 (初詣の人出で例年日本一を争う)及び 東京都 八王子市 の 高尾山薬王院 がある。 祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年( 1591年 )、 妙心寺 の僧・ 南化玄興 を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている 長谷川等伯 一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。(WIKI) 鯉の波紋 国宝:長谷川等伯 桜図 松に立葵図

養源院:東山 Yougenin

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文禄 3年( 1594年 )に 豊臣秀吉 の側室・ 淀殿 が父・ 浅井長政 、祖父 浅井久政 らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って創建した。浅井長政・久政は天正元年(1573年)、 小谷城 で自刃している。開山は浅井氏の庶流にあたる 比叡山 の僧 成伯法印 である。その後、 元和 5年( 1619年 )、火災により焼失。元和7年( 1621年 )、淀殿の妹である 徳川秀忠 の正室・ 崇源院 (江)の願により再興された。 以後、 徳川氏 の菩提所となった。もと天台宗で第二次大戦後に 浄土真宗遣迎院派 に改宗した 。(WIKI) 襖絵と杉戸絵 俵屋宗達 作の 重要文化財 があり、これも伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれたものと伝えられており、杉戸の象や唐獅子や麒麟などを図案化した構図は、表現の奇抜さでも知られている。  白象図杉戸絵  宗達筆 唐獅子図杉戸絵   松図襖絵

井戸茶碗:根津美術館  NEZU  MUSEUM  

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●すこし京都からはなれ南青山です。 しかし庭にでると京都にもどった感じです! Ido  Tea  Bowls Paul Bassette

露庵:四条 Roan

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●菊の井  木屋町店 ●カウンターでおふたりのレディーととなりあわせました。 日帰りで姫路からおみえでした。 それぞれお茶とお能が趣味なのだそうです。 「新歌舞伎座いきましたよ!」 「根津美術館はいいですね!」 「京都ではどちらがよかったですか?」 「きのう楽美術館と細見美術館へいってきました。」 「野村美術館がおすすめですよ!」 「そうですか。次回、行こうと思います!」 料理説明の合間に会話する、 一期一会の出会いも楽しいものです。 南禅寺蒸 こしび

河井寛次朗記念館:kanjirou Kawai

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●五条 河井 寛次郎 (かわい かんじろう、 1890年 (明治23年) 8月24日  -  1966年 (昭和41年) 11月18日 )は、 日本 の 陶芸家 。 陶芸 のほか、 彫刻 、 デザイン 、 書 、 詩 、 詞 、 随筆 などの分野でも優れた作品を残している。 当時の 島根県 安来町(現在の 安来市 )の大工の家に生まれる。松江中学(現 島根県立松江北高等学校 )を経て、 1910年 、東京高等工業学校(現 東京工業大学 ) 窯業科 へ入学する。寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる 陶工 の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。東京高等工業学校では、陶芸家の 板谷波山 の指導を受けたほか、 窯業 の科学的研究を行った。1914年東京高等工業学校卒業後は、京都市陶磁器試験場 [1] に入所し、東京高等工業学校の後輩でもある 濱田庄司 とともに1万種以上の 釉薬 の研究や、中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行った。 1920年 、五代 清水六兵衛 の技術的顧問を務めていた縁で 京都 ・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始する。同年、京都の 宮大工 の娘・つねと結婚する。(WIKI) ●にわか雨の中、河合寛次朗記念館を たづねました。 前回京都に来た時に、訪問をやむなく断念せざるを得なかった経緯があります。 期待どうり楽しい空間でした! いまでも作家の息遣いが聞こえるようです。 やっと念願がかないました。 中庭  素焼窯 登窯